新型コロナウィルス感染症拡大は、自由と公共の福祉という憲法で習った用語を思い出させます。
公共の福祉を皆さん覚えていますでしょうか。
「公共の福祉」とは,「社会全体の共通の利益」であり,「ほかの人の人権との衝突を調整するための原理」です。
この「公共の福祉」という言葉は,日本国憲法の中で使われています。日本国憲法では,基本的人権が保障されています。
基本的人権には「平等権」「自由権」「社会権」などがあり,さまざまな権利が認められています。たとえば,「教育を受ける権利」「表現の自由」「信教の自由」など,これらはすべて基本的人権として保障されています。しかし,これらの権利をすべての人が勝手に主張したら,ほかのだれかの基本的人権を奪うことになってしまうかもしれません。
このようなことを防ぐために,日本国憲法は第12条の後半で次のように定めています。
「国民は,これを濫用(らんよう)してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
「これ」とは,憲法で保障されている自由や権利(基本的人権)のことです。基本的人権は自分ひとりだけのものではないので,わたしたち国民は,他人の権利を侵害するような権利の使い方(=権利の濫用)をしてはいけません。国民には,社会全体がよくなる(=公共の福祉)ように,権利を利用する責任があります。(出所 ベネッセ教育サイト「中学社会【現代社会】公共の福祉とは?」)
ここで忘れてはならないのは、公共の福祉が国民の人権より「上」ではないということです。
憲法は、国家権力に歯止めをかけて、国民の人権を守るために生まれたというのが近代の歴史です(日本は少し特殊です)。よって、憲法は「人権保障」のために存在しています。あくまで「個人の尊重」こそが憲法の基本的な価値です。
以下は司法試験予備校の講師として有名になった伊藤真氏が所長を勤める研究所のサイトからの引用です。
皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。
実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。
仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。
個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。
個人の人権を制限できるものは、別の個人の人権です。
公共の福祉とは、個人と個人の人権の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理です。公共の福祉が「上」ではありません。
コロナ禍の中では、様々な個人の人権と人権が衝突しました。
- 教育を受ける権利と、他者の生命や健康
- 飲食店を営業する権利と、他者の生命や健康
- 行動の自由(パチンコに行く自由?)と、他者の生命や健康
こんな感じでしょうか。
生命や健康を守るという人権の中でも基本中の基本を守るために、他者の「教育を受ける権利」や「営業の自由」等といった人権が制限を受けたと私は思います。
言葉が難しいのですが、決して「社会・公共の利益が上」な訳ではないということです。